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静寂への招待状 ①

last update Last Updated: 2025-12-18 22:34:06

 その時──緊張を裂くように、リサのポケットの中でスマートフォンが震えた。

 唐突な振動に、リサはビクリと肩を震わせる。

 画面には「非通知」の文字。

 嫌な予感が胸を締め付ける。

 このタイミングでの非通知──まるで誰かがこちらの行動を監視し、見計らってかけてきたかのようだ。

 リサは美咲と視線を交わし、震える指で通話ボタンを押す。

「……はい」

『……母さんを、虐めたね』

 低く湿った声。感情の欠片もなく、削ぎ落とされた響きが雨音と混じり合う。受話口から冷たい水が流れ込んでくるような錯覚に、リサは息を呑んだ。

 聞き覚えのない声──一体、誰なのか。ただ、その言葉の異様さが胸を締め付ける。

 電話の主は『母さんを、虐めたね』と言った……

「まさか……」

 リサの頬から一気に血の気が引いた。

「石場……さん?」

 喉の奥から絞り出した声はかすれている。恐怖に押し出された声だ。

 リサは弾かれたように視線を巡らせた。

──どこかで見ている?

 雨に煙る河川敷、風にざわめく濡れた茂み。その暗がりの奥底から、粘着質な視線がじっとこちらを射抜いている──そんなおぞましい気配に肌が粟立つ。

『母さんは震えていたよ。可哀想に……。せっかく僕が守ってあげていたのに』

 石場は私が佐和子に接触したことを知っている。佐和子が報告したのか、それとも、ずっと監視でもしていたか。

『父さんも母さんも、弱すぎるんだ。外の音に惑わされて、すぐに怯える。……だから、もっと静かな場所に連れて行ってあげなきゃいけない』

 リサの心臓を氷の刃が撫でるような感覚が走る。

「連れて行く……? どこへ?」

『君たちには関係ないよ。……でも、一つだけ教えてあげる』

 声のトーンが、ふっと柔らかくなった。

 それは慈悲のようであり、死刑宣告のようでもあった。

『……もう、誰も怯えなくていいように。僕が、音を消してあげるんだ』

 そこで通話が切れた。

 ツーツーという電子音が、雨音にかき消される。

 リサはスマートフォンを握りしめたまま、呆然と立ち尽くした。

 音を消してあげる──

 その言葉の冷たい響きがリサの思考を凍りつかせる。力の加減を知らない子供が、壊れた玩具を無理やり直そうとするような、無垢な善意──

 リサには、そう聞こえた。
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  • 失われた二つの旋律   静寂への招待状 ①

     その時──緊張を裂くように、リサのポケットの中でスマートフォンが震えた。 唐突な振動に、リサはビクリと肩を震わせる。 画面には「非通知」の文字。 嫌な予感が胸を締め付ける。 このタイミングでの非通知──まるで誰かがこちらの行動を監視し、見計らってかけてきたかのようだ。 リサは美咲と視線を交わし、震える指で通話ボタンを押す。「……はい」『……母さんを、虐めたね』 低く湿った声。感情の欠片もなく、削ぎ落とされた響きが雨音と混じり合う。受話口から冷たい水が流れ込んでくるような錯覚に、リサは息を呑んだ。 聞き覚えのない声──一体、誰なのか。ただ、その言葉の異様さが胸を締め付ける。 電話の主は『母さんを、虐めたね』と言った……「まさか……」 リサの頬から一気に血の気が引いた。「石場……さん?」 喉の奥から絞り出した声はかすれている。恐怖に押し出された声だ。 リサは弾かれたように視線を巡らせた。──どこかで見ている? 雨に煙る河川敷、風にざわめく濡れた茂み。その暗がりの奥底から、粘着質な視線がじっとこちらを射抜いている──そんなおぞましい気配に肌が粟立つ。『母さんは震えていたよ。可哀想に……。せっかく僕が守ってあげていたのに』 石場は私が佐和子に接触したことを知っている。佐和子が報告したのか、それとも、ずっと監視でもしていたか。『父さんも母さんも、弱すぎるんだ。外の音に惑わされて、すぐに怯える。……だから、もっと静かな場所に連れて行ってあげなきゃいけない』 リサの心臓を氷の刃が撫でるような感覚が走る。「連れて行く……? どこへ?」『君たちには関係ないよ。……でも、一つだけ教えてあげる』 声のトーンが、ふっと柔らかくなった。 それは慈悲のようであり、死刑宣告のようでもあった。『……もう、誰も怯えなくていいように。僕が、音を消してあげるんだ』 そこで通話が切れた。 ツーツーという電子音が、雨音にかき消される。 リサはスマートフォンを握りしめたまま、呆然と立ち尽くした。 音を消してあげる── その言葉の冷たい響きがリサの思考を凍りつかせる。力の加減を知らない子供が、壊れた玩具を無理やり直そうとするような、無垢な善意── リサには、そう聞こえた。

  • 失われた二つの旋律   川辺の追憶 ②

    「……分かる気がする」 美咲が呟いた。「この音の中にいると、自分が誰なのか分からなくなる。……彼も、この音の中で自分を消していたのね」 その時、リサがハッと顔を上げ、数メートル先の茂みに目を凝らした。 踏み荒らされた草。そして泥の上に残された無数の足跡──誰かがいた形跡がある。 足跡は川の方へ向かい、立ち尽くした後、ふらつくような足取りで、道路の方へと戻っている。 狭い範囲を何度も往復し、同じ場所を執拗に踏み荒らした跡だ。まるで檻の中の獣が徘徊していたかのように、地面は不自然に乱れていた。「誰か……来ていたみたいね」 リサが足跡を目で追うと、ガードレールの近くに、泥にまみれた何かが落ちているのに気づいた。 リサは駆け寄り、それを拾い上げた。 小さな金属製のボタンだ。アンティーク調の、少し変わったデザインをしている。「これって……」 リサの脳裏に、ある記憶がよぎる。 カフェで美咲に見せてもらった写真──エミリアと話していた石場が着ていた古びたコート。 不鮮明な記憶だが、確かこんな風合いのボタンが付いていたような気がする。 だが、確証はない。どこにでもある既製品かもしれない。「何か見つけたの?」 美咲が不安そうに覗き込む。「美咲、これを見て。見憶えない?」 リサは泥を払い、そのボタンを美咲に差し出した。 美咲はそれを覗き込み、息を呑んだ。「まさか、石場が着ていたコートのボタンじゃ……」 二人の視線が交錯する。「ここに来たのかな」 美咲が震える声で呟く。 リサは足元の泥を指差した。 この場所に石場が来たのだとしたら、一体、何の為に…… 何かを探していたのだろうか。 そうではないとしたら、とても正常な精神状態とは思えない、激しい葛藤と混乱の痕跡──「ここに誰かがいたのは間違いない。……そして、ひどく取り乱していた」 美咲の顔色が蒼白になる。 この異常な徘徊癖── カフェの店員や同僚たちが語っていた、石場の奇行と重なる。いや、それ以上だ。 泥に残された足跡の乱れは、彼がここで何か恐ろしい記憶と格闘し、発狂寸前だったことを物語っているようだった。

  • 失われた二つの旋律   川辺の追憶 ①

     リサの車は、市街地を抜けて郊外の河川敷へと向かった。 ワイパーが追いつかないほどの豪雨。視界は白く煙り、世界が水の中に沈んでいくようだ。ハンドルを押し込む掌に汗が滲み、革の感触がじっとりと伝わってくる。 救えなかった依頼人の記憶が、雨音とともに胸を締め付ける。──私はまた、同じ過ちを繰り返そうとしているのではないか? あの時と同じ間違いは、もう二度としたくはない。 表面的な「不審者」という情報だけで石場を犯人と決めつけ、その背後に潜むかもしれない「真の支配構造」を見落とすわけにはいかないのだ。 リサの視線は前方の雨に釘付けになっていた。ワイパーが必死に水を払っても、彼女の目は焦点を結ばず、どこか遠い過去を見ているようだった。 雨の向こうに映っているのは現実ではなく、過去の影…… ハンドルを握る手は固くこわばり、指先が白くなっている。呼吸は浅く速く、胸の奥で何かを押し殺すように震えていた。「リサ? 大丈夫?」 助手席の美咲が、心配そうに声をかける。 リサは短く息を吐き、頷いた。「……ごめん、昔のことを思い出していたの」 急がないと手遅れになる気がする── 車は水飛沫を上げながら、河川敷の駐車場に滑り込んだ。 二人は車を降り、傘を差して堤防の上に立った。 眼下には、茶色く濁った水がうねりを上げて流れている。数十年前、ここで幼い兄弟の運命が分かれた場所だ。 周囲を見渡すと、護岸のコンクリートは長年の風雨に晒されて黒ずみ、所々に走る亀裂からは夏草が枯れたままへばりついていた。 あれから二十数年もの時が流れているというのに、大規模な改修工事が行われた形跡はどこにもない。 錆びついた手すり、ひび割れた舗装、そして荒れ狂う川面── 目の前に広がる光景は、あの日、幼い兄弟が直面したであろう残酷なまでの荒涼さを、そのまま現代に留めているようだった。「ここね」 リサが大声で言った。激しい雨音に負けないように声を張り上げる。「記事によれば、和弘が立っていたのはこの場所よ」 美咲は柵を握りしめ、濁流を見つめた。 轟音が鳴り響いている。 川の水の音と、雨の音── これだけの音に包まれたら、人の声など届かない。 世界から切り離されたような孤独感だ。 時が止まったようなこの場所で、かつての少年もまた、轟音の中に立ち尽くしていたのだろうか

  • 失われた二つの旋律   矛盾する二つの顔 ⑤

     リサは一度言葉を切り、美咲が持参したスケッチブックと楽譜に再び視線を落とした。『Kへの手紙』──エミリアが石場に託した、魂の共鳴の証。 私がアパートで感じた底知れぬ闇と、目の前にある純粋な魂の交流の記録── この二つの石場像は、あまりにも矛盾している。感情が欠落した人間に、音楽の深い悲しみを理解できるはずがない。 リサは唇を噛み、視線を記事と楽譜の間で行き来させた。「どちらが本当の石場なんだろうね……」  その言葉は、美咲の胸にも突き刺さる。「怪物なのか、迷子なのか……。私たちが見ているのは、同じ人間なのに、まるで二つの顔が重なっているみたい」 美咲は震える声で応じた。 二人は互いに視線を交わした。 その瞳には、答えの見えない迷路に迷い込んだ者同士の困惑が映っている。 もし石場が怪物であるなら、この楽譜に込められたエミリアの想いは一体どうなるのか。彼女は虚像を見ていたことになる……。たとえ、それが虚像であろうと、一時的な安らぎであろうと構わなかったのかもしれないが…… もし石場が「迷子」であったなら、そして、もし彼が本当にエミリアを殺していないのだとしたら、彼女はどこへ消えたのか?「美咲、あなたの直感と、この楽譜が正しければ……石場和弘は怪物じゃない。ただの傷ついた『迷子』よ。だとしたら、彼を怪物に仕立て上げ、罪を被せようとしている『本当の怪物』が別にいるはず」 楽譜に刻まれた旋律は、彼女自身の孤独の叫び──「つまり……本当の怪物は、まだ暗闇の中にいるってことね」 美咲はリサを見据え、そっと呟いた。 二人の間に、再び重たい沈黙が落ちる。 雨音が窓を叩き続ける中、父親の影がじわりと場面全体を覆い始めていた。「行ってみない?」 リサが意を決したように言った。「彼が兄を見殺しにしたのか、それとも悲しみの中で立ち尽くしていただけなのか。その原点を見れば、エミリアに対して何をしたのかも分かるはずよ」「原点……」「兄が亡くなった川よ。……今なら、雨が降っている」 リサは伝票を掴み、立ち上がった。 相反する証拠を手にした二人が向かうのは、すべての因縁が渦巻く過去の現場── 外の雨音は、さらに激しさを増していた。それは石場の意識を覚醒させる呼び鈴のように、街全体に響き渡っていた。

  • 失われた二つの旋律   矛盾する二つの顔 ④

    「それが違うかもしれないのよ、リサ」 美咲は視線を逸らしながら、ゆっくりと言葉を置いた。「美咲?」「あの日、倉庫で追いかけられた時の恐怖は、今でも消えていないわ。あの時の彼は、言葉も通じない獣みたいだった。……だから、彼が危険だということは身に染みて分かってる」 美咲は自身の腕を抱きしめるようにさすった。蘇る恐怖を必死に抑え込んでいるようだ。「でもね、リサ。これを見て」 美咲はバッグから、大切そうに包まれたスケッチブックと一枚の楽譜を取り出して、テーブルに広げた。「これは……?」「エミリアの日記と、彼女が書いた楽譜よ。アレックスの家で見つけたの」 リサは手書きの譜面に目を落とした。 タイトルには『Kへの手紙』とある。「『K』……和弘のこと?」 リサが眉をひそめて呟いた。「たぶんね。エミリアの日記には、こう書いてあったわ。『彼の目には、私と同じ色が宿っている。世界から弾き出された、迷子のような色』って」 そう言って、美咲は苦しげに顔を歪めた。 過去にピアノを弾いていたから分かる。複雑で、どこか物悲しい旋律…… その下の余白に、エミリアの筆跡でメッセージが記されていた。『あなたが聴いてくれたから、私はひとりじゃなかった。ありがとう。私の、たった一人の共鳴者(リスナー)』「リサ、わたし分からないの。私が倉庫で見た『怪物』のような彼と、エミリアが見ていた『孤独な迷子』のような彼。……どっちが本当の彼なのか。それとも、私の目が恐怖で曇っていただけなの?」 美咲の声は震えていた。楽譜が示す「理解者」としての石場を信じたい気持ちと、自身の体験した恐怖が矛盾し、彼女の中で答えが出せずにいる。 リサはスケッチブックのページを開いた。 そこに綴られていたのは、ストーカー被害の恐怖などではなかった。 そこにはカフェの片隅で一人佇む男のスケッチがあった。背中を丸め、周囲の雑踏から切り離された孤独な男。石場だろう。 しかし、その絵から受ける印象は、不気味さではなく、胸が締め付けられるような切実な寂しさだった。エミリアの温かい眼差しが、鉛筆の線一つ一つに宿っている。「エミリアは彼を恐れていなかった。むしろ、自分と同じ、音のない世界を持つ彼に救いを感じていたのよ」 美咲はリサを見つめた。「リサ、あなたが妹から聞いた、兄の遺影の前で笑っていた。と

  • 失われた二つの旋律   矛盾する二つの顔 ③

    「これを見たら分かるわ」 検索窓に『石場健太』『水難事故』と打ち込む。 数秒のロードの後、二十数年前の地方紙の縮刷版が表示される。「……あったわ」 小さな囲み記事。リサは画面を拡大し、美咲にも見えるようにテーブルの中央に置いた。『悲劇の夏休み 男児、増水した川で転落死』 数十年前の事故記事。兄・健太の死を伝える古い紙面だ。「彼には兄がいたわ。健太という名前の。でも、幼い頃に川で溺れ、亡くなってる。事故死らしいの。由美子さんは、そうは思ってなさそうだったけどね」「お兄さんが……」「記事には、当時八歳だった石場健太くんが、川で足を滑らせて流され、数キロ下流で遺体となって発見された経緯が記されているわ。そして、第一発見者である弟・和弘についての記述もね」 リサは記事の末尾を指差した。『一緒に遊んでいた弟(六歳)が帰宅し、母親に事故を伝えた。駆けつけた消防団員によると、弟は現場の様子を落ち着いた口調で伝えていたという』「……落ち着いた口調?」 美咲の声が震える。「兄が流されたのよ? 普通の子供ならパニックになって泣き叫ぶはずでしょう?」「ええ。でも、彼は冷静だった。妹の由美子さんの証言と一致するわ。その由美子さんがね、葬儀の時に見たそうよ。兄の遺影の前で、石場和弘が肩を震わせて笑っていたのを」「笑っていた……?」 美咲が息を呑む。「ええ。泣き叫ぶ『和弘』の人格が土倉で壊れ、代わりに現れた『怪物』が、邪魔な存在を排除したのかもしれないってこと。少なくとも妹の由美子さんはそう思ってる。……美咲、あなたの直感は正しかったのよ。倉庫であなたを追ったのは、その怪物かもしれない」 リサの言葉は重かった。「これが記録された事実よ。彼は兄が死ぬのを、ただ見ていた。もし彼に人の心が欠落しているなら、エミリアに対しても同じように、冷徹に処理できたのかもしれない」 幼少期の虐待が生み出した、感情を持たない怪物──それが石場和弘の正体だとするなら、エミリアはその犠牲となった可能性がある。 そして父親は、その怪物を檻に閉じ込めつつ、世間の目を欺くためにあらゆる問題を隠し続けてきた。そう考えることはできないか。 だが、美咲は、それを払いのけるように、ゆっくりと首を横に振った。

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